横浜流星さん主演の2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、“江戸のメディア王”蔦屋重三郎の生涯が描かれます。
「べらぼう」では、安田顕さん演じる平賀源内も登場し、主人公の蔦屋重三郎とも深く関わってきます。
平賀源内といえば発明家として名を残し、誰もが一度は聞いたことのある「エレキテル」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?
とはいえ、エレキテルとは一体なんなのでしょうか??
蘭学者、医者、戯作者…などなど、多くの肩書きを持つ平賀源内はいったい何をした人で、どんな功績を残した人なのか、また蔦屋重三郎とはどのような関係があったのかをまとめました。
平賀源内は何した人?
平賀源内のwiki経歴プロフィール
名前:平賀 源内(ひらが・げんない)
生年月日:享保13年(1728年)月日不明
没年月日:安永8年12月18日(1780年1月24日)
出身:讃岐国寒川郡志度浦(香川県さぬき市志度)
職業:本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、西洋画家、発明家
ペンネーム:鳩渓、風来山人、悟道軒、天竺浪人、福内鬼外、李山など
平賀源内は、讃岐国寒川郡志度浦(さぬきのくに さんがわぐん しどうら)の高松藩の足軽の家に生まれました。
現在の香川県さぬき市志度には、平賀源内の銅像が建っています。
父は白石茂左衛門(良房)で、兄弟が多数いました。
13歳から藩医の元で本草学や儒学を学んだり、俳諧を行なっていましたが、寛延2年(1749年)、源内が21歳の時に父が亡くなり家督を継ぎ、高松藩志度御蔵番となります。
この頃から平賀姓を名乗っています。
宝暦2年(1752年)、24歳の時に長崎へ遊学し、本草学やオランダ語、医学、油絵などを学びました。
宝暦4年(1754年)、26歳の時に、妹の里与にいとこの権太夫を婿入りさせて平賀家の家督を譲り、藩の役目を辞しました。
その後は大坂や京都で学び、さらには江戸で田村元雄に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家に入門。
そして、2度目の長崎遊学では、鉱山の採掘や精錬の技術を学びました。
とにかく好奇心旺盛な源内は、興味のあるものは全て学ぶ姿勢だったのですね!
その後の源内の功績は後述しますが、源内の最期は獄中でした。
1779年(安永8年)、大名屋敷の修理を請け負った際、酒宴のあと酔っていた源内は修理計画書が盗まれたと勘違いして、大工の棟梁2人に対して抜刀して殺傷してしまいました。
奉行所に自首した源内は、11月に投獄され、その1カ月後に破傷風により獄死したとされています。享年は52歳でした。
エレキテルとは何?
平賀源内といえば、エレキテルが真っ先に思い浮かぶ人も多いかもしれません。しかし実のところエレキテルってなんなのでしょうか?
エレキテルは平賀源内自身が発明したものではなく、1751年頃にオランダ人が長崎に持ち込こんだもの。それを源内が修復しました。
エレキテルは、摩擦や手動での回転運動を利用して静電気を発生させる装置。
ハンドルを回して、箱の中のガラスの円筒と金箔をこすり静電気を発生させ、それを蓄電装置(ライデン瓶)に溜めた後に放電装置を通して放出することにより、バチっとスパーク(火花)が見える現象が起きます。
主な用途としては、
- 静電気の性質を研究するための科学研究
- スパークを観察して驚きや楽しみを提供する見せ物としての娯楽
- 静電気が健康に良いとされたための治療目的
として使用されていました。
源内は1770年(明和7年)に、古道具屋または長崎通詞から破損したエレキテルを購入した説があり、原理や仕組みを理解し研究して、安永5年(1776年)に修理して復元したのでした。
平賀源内の発明品や功績は?
平賀源内は、多才で博識、好奇心旺盛で様々な分野で活躍した江戸時代屈指のマルチクリエーター。
本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、西洋画家、発明家と多くの肩書きを持つ源内は、具体的にどのような発明品や功績を収めたのでしょうか?
お神酒天神
幼少期から様々なからくりを工夫して人々を驚かせており、1739年(元文4年)、源内が11歳の頃にからくり掛軸「お神酒天神」を作成して、評判となりました。
「お神酒天神」は、掛け軸の天神様の頬の部分をくり抜き、肌色と赤色の紙を糸で吊るして、徳利を置くとその重さで糸が引かれて、裏に仕込んだ赤色の紙が引っ張られるという仕組みです。
赤色の紙がスライドして、天神様の顔が赤くなり、お酒を飲んで赤くなったように見えるという、なかなか粋な仕掛けですね!
量程器の製作
1755年(宝暦5年)の27歳の時、源内は「量程器」を製作しました。
現在で言うところの万歩計の元とされていて、歩いた振動を歯車でカウントする原理。
当時は歩数ではなく、距離を測るための装置だったのだそう。
磁針器の製作
同じく1755年(宝暦5年)の27歳の時、高松藩の家老・木村李明に依頼されて「磁針器」を製作。
現在で言う羅針盤で、方位を知るための装置として利用されました。
全国規模の物産展
1762年(宝暦12年)、第5回薬品会「東都薬品会」を全国規模で開催しました。
本草学を学んでいた源内が最初に開催した「東都薬品会」は1757年(宝暦7年)で、回を増すごとに盛況となり満を持して開催された第5回目は、全国25箇所に取次所を設けた大規模なものでした
この全5回にわたる博覧会の後、出品物2000種をもとに研究成果を収めた「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」全6巻を発刊しました。
火浣布の開発
1764年(明和元年)1月、源内が36歳の時 、秩父中津川の山中で偶然に石綿(アスベスト)を発見。
石綿は極めて細かい繊維性の鉱石で、耐久性、耐熱性、耐薬品性、電気絶縁性に優れていました。
その石綿を利用して源内は不燃性の布を製作し、中国にならい火浣布(かかんぷ)と名付けて幕府に献上しました。
寒暖計(日本創製寒熱昇降図)製作
オランダ製の「タルモメイトル(寒暖計)」を長崎通詞に見せてもらい、1768年(明和5年)1月、源内が40歳の時にそれを模造した「日本創製寒熱昇降図」を製作しました。
この温度計には、華氏(°F)が用いられ、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列や数字列が記されていました。
現存はしていないようですが、日本では初めての温度計となり、その後いろいろな人の手によって改善が加えられていきます。
鉱山の開発
また、1766年(明和3年)38歳の時、秩父中津川で金山事業に着手。しかし採掘量が少なく3年後に休業します。
そして1773年(安永2年)春、45歳の時に再び鉄山の開発事業を行い、その後撤退することになりますが、6月に秋田藩に招かれて鉱山開発の指導を行うことになりました。
ライターの発明
1772年(安永元年)、源内が44歳の時、日本で最初とされるライターを発明しました。
ゼンマイ仕掛けのバネを使用して、火打石に小さな鉄のハンマーをぶつけて、発生した火花がモグサに点火して着火する仕組み。
この日本初ライターは、「刻みたばこ用点火器」として当時の好事家には好評だったといいます。
マッチは今から200年ほど前の1826年にイギリスの薬剤師ウォーカーによって初めて発明されました。その当時のマッチは、軸木の先に黄燐を付けた黄燐マッチでした。その黄燐マッチが実用化されたのは、翌年の1827年です。
土用の丑のウナギ
もともと丑の日には、古くから「う」つく食べ物を食べると夏負けしないという風習があり、ウリやうどん、梅干し、牛、馬などを食していました。
そこで、夏場の売上不振に悩んでいたウナギ屋から相談を受けた源内は、その習慣から着想を得て「本日丑の日」と宣伝をうったところ、大繁盛したと言う説があります。
それをほかのウナギ屋も真似て、土用の丑の日にはウナギを食べるという習慣が定着したと言われています。
注:平賀源内説の出典は不明で、諸説あり。
元祖コピーライター
前述の「本日丑の日」も、源内が考えたキャッチコピーの一つと言えますが、他にも数々のマーケティングに携わっていました。
1769年(明和6年)、源内が41歳の時、日本初のCMソングともされる歯磨き粉「漱石膏」の作詞作曲を手がけ、また、1775年(安永4年)にも、音羽屋多吉の清水餅の広告のキャッチコピーを手がけています。
世上の下戸様方へ申上候。
そも我が朝の風俗にて、
目出たき事にもちいの鏡子もち、
金もち屋敷もち、
道具に長もち、
魚に石もち、
廊に座もちたいこもち、
家持(やかもち)は歌に名高く、惟茂(これもち)武勇かくれなし。かかるめでたき餅ゆえに、
清水餅の口上
このたび思いつきたての器物さっぱり清水餅、
味はもちろんよいよいと、
ご贔屓ご評判のおとりもちにて私身代もち直し、
よろしき気もち心もち、
かかあもやきもちうち忘れ、尻もちついて嬉しがるよう、
重箱のすみからすみまで木に餅のなるご評判願い奉り候、
以上。
これは、当時でいうところの「口上」で、ラップのように韻を踏んで流れるように口ずさむことができたり、ベタ褒めしたり酷評したりすることで、人々の心をつかんでいたと考えられます。
平賀源内は男色家だった
源内は、男色家(同性愛者/ゲイ)だったことで有名で、「江戸男色細見」という色を売る男性の茶屋のガイドブックを書いていました。
また、歌舞伎役者の女形、二代目瀬川菊之丞に惚れ込んだ源内は、菊之丞をモデルにしたBL小説「根南志具佐(ねなしぐさ)」を書いていたのだとか。
平賀源内と蔦屋重三郎の関係は?
吉原大門近くの五十間道に書店を構えていた蔦屋重三郎は、1774年(安永3年)に「吉原細見」の編集に抜擢され「細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)」を刊行しました。
この「細見嗚呼御江戸」の序文は、「福内鬼外(ふくちきがい)」というペンネームで、平賀源内が書いたものでした。
平賀源内はマルチな才能を持ち、前項で数々の功績を紹介してきた以外にも、戯作や絵師としても活躍し、錦絵の開発に携わった重要人物であるともされています。
源内は、文化の中心である吉原へはよく訪れていたため、吉原で生まれた蔦屋重三郎にとってはよく知った存在であると同時に、カリスマ有名人“平賀源内”は憧れの存在だったのでしょう。
その平賀源内が書いた「細見嗚呼御江戸」の序文には、女衒(せげん)という人身売買を行う業者が、何を見て女性の優劣をつけるかなどがかかれていました。
有名人だった源内が序文を書いたということも話題性につながるのですが、そもそも、源内は「男色家」。
女性の色を売る吉原で、そのガイドブックの序文に男色家の源内を起用したことは、人々を大いに驚かせたのでした。
まとめ【べらぼう】平賀源内は何した人でエレキテルとは何?蔦屋重三郎との関係
大河ドラマ「べらぼう」に登場する平賀源内の功績やプロフィールついてまとめました。
名前はもちろん知っているけど、実は何をした人だったのか具体的にはよくわからなかった、という方も多かったのではないでしょうか?
様々な分野でマルチな才能を持っていた平賀源内は、江戸ではカリスマ的な存在でした。同じ時代に生きた若い蔦屋重三郎とのつながりなど、「べらぼう」ではどのように描かれるか楽しみですね。
コメント