2026年NHK大河ドラマ、仲野太賀主演の「豊臣兄弟!」は、戦国時代の豊臣秀長を中心に、兄・秀吉との絆や下剋上の波乱を描く注目作!
本作の舞台やロケ地は、歴史ファンや聖地巡礼を楽しみたい方にとって見逃せない情報が満載。
現在判明している撮影場所は、山形県の慈恩寺やスタジオセディック庄内オープンセットなどですが、京都や大阪、滋賀、奈良、名古屋、和歌山といったゆかりの地でも撮影が行われる可能性があります。
この記事では、公式発表やエキストラ募集情報も踏まえつつ、「豊臣兄弟!」の撮影場所・舞台・ゆかりの地をまとめて紹介します。
豊臣兄弟!ロケ地:山形県
2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の撮影が本格的にスタートした地として、現在公式に判明しているロケ地が山形県です。
歴史ある寺院でのクランクイン撮影に加え、戦国時代の街並みを再現できる大規模オープンセットでも撮影が行われており、山形は『豊臣兄弟!』の物語序盤を支える重要な舞台となっています。
ここでは、現時点で明らかになっている2つのロケ地を詳しく紹介します。
瑞宝山 本山慈恩寺(山形県寒河江市)
瑞宝山 本山慈恩寺は、2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』のクランクインが行われた記念すべきロケ地です。
ニュースでもありましたが、
— 寒河江市市民レポーター「さくらんぼ特派員」 (@sagae_tokuhain) June 6, 2025
来年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の
撮影が慈恩寺でクランクインしました。
ここ数日、大型トラックがいたり、
慈恩寺活性化センターでも
スタッフさんの動きが慌しかったです。
どのようなシーンになるのか
今から楽しみです。#寒河江#NHK大河ドラマ pic.twitter.com/wK0YP8NgOo
報道によると、この日の撮影では、長い間行方不明だった兄・藤吉郎が突然現れ、弟・小一郎と再会する場面が描かれたとされています。
まさに「豊臣兄弟!」という物語の核となる“兄弟の始まり”を象徴するシーンであり、作品全体のスタート地点として選ばれた理由にも納得がいきます。
慈恩寺は奈良時代創建と伝わる由緒ある寺院で、山形県内でも屈指の歴史的建造物を有する場所。
重厚で静謐な空気感は、戦国時代を描く大河ドラマの世界観と非常に相性がよく、映像としても印象的なシーンになっている可能性が高いでしょう。
放送後は、「豊臣兄弟! クランクインの地」として聖地巡礼スポットになることが期待されます。
瑞宝山 本山慈恩寺
山形県寒河江市慈恩寺31
JR羽前高松駅から徒歩約20分
JR寒河江駅から車で約12分
寒河江IC から車で約15分
山形空港から車で約20分
https://honzan-jionji.jp/
スタジオセディック庄内オープンセット(山形県鶴岡市)
山形県鶴岡市のスタジオセディック庄内オープンセットは、戦国時代から近世までの街並みや建物を再現できる、日本最大級の時代劇オープンセットです。
スタジオセディック庄内オープンセット
— kumi* (@k_kumiko0917) September 22, 2025
途中土砂降りなったりして中々ハードでしたが人のいない夢の国でした🤭
2枚目のおしんの生家は来年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の撮影で使用されているそうです。 pic.twitter.com/cEoIgr1hEh
城下町や農村、武家屋敷などを柔軟に表現できることから、合戦前後の場面や庶民の暮らしを描くシーンなど、幅広い場面で使用されている可能性があります。
また、撮影にあわせてエキストラ募集が行われたことも確認されており、村人役や町人役として一般参加者が撮影に加わった点も話題となりました。
スタジオセディック庄内オープンセットは、約88ヘクタールの広大な敷地に、江戸時代から昭和初期の町並みがリアルに再現されており、まるでタイムスリップしたような世界観が広がります。
スタジオセディック庄内オープンセットは、「るろうに剣心」「勇者ヨシヒコ」「ゴールデンカムイ」「イクサガミ」など過去にも多くの映画・ドラマで使用されてきた実績があります。
「豊臣兄弟!」においても物語のリアリティを支える重要な撮影拠点になっていると考えられます。
アクセス
山形県鶴岡市羽黒町川代字東増川山102
JR鶴岡駅から約20km
https://openset.s-sedic.jp
豊臣兄弟!舞台とゆかりの地
2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、豊臣秀長を主人公に、兄・豊臣秀吉とともに天下へと駆け上がった軌跡を描く作品です。
その物語の舞台となるのは、実際に豊臣兄弟が生き、戦い、政を行った全国各地の「ゆかりの地」。
現在は撮影場所として公式に発表されている地域は限られていますが、史実をもとに考えると、京都・大阪・名古屋・滋賀・奈良をはじめ、福井や敦賀、鳥取、福知山なども物語と深く関わる重要な土地といえます。
ここでは、「豊臣兄弟!」の舞台背景として注目されるゆかりの地を、地域ごとに整理して紹介していきます。
ゆかりの地:京都
京都は、豊臣兄弟が天下人へと歩みを進める過程で、政治・軍事・文化の中心となった重要な舞台。
特に豊臣秀吉が政権を握った後、京都は事実上の首都として機能し、弟・豊臣秀長も兄を支える立場で深く関わっていました。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」においても、戦国の動乱から政権確立へと移り変わる局面で、京都は物語の重心となるエリアとして描かれる可能性が高いと考えられます。
福知山城(京都府福知山市)
京都府福知山市にある福知山城は、戦国時代の重要人物と豊臣兄弟の双方に関わる、非常に象徴的な城。
福知山城といえば、明智光秀が城を築き、城主を務めたことで広く知られていますが、1582年(天正10年)の本能寺の変後、豊臣秀長が二代目城主となったことでも知られています。
光秀亡き後、混乱する丹波・丹後地域を安定させるために秀長が城主として入ったことは、豊臣政権における秀長の手腕と信頼の厚さを示す出来事といえるでしょう。
「豊臣兄弟!」が秀長を主人公に据えていることを考えると、福知山城は、兄・秀吉を陰で支えながら領国経営に力を尽くした秀長の姿を描くうえで、非常に重要な舞台となる可能性があります。
大徳寺 大光院(京都市北区)
大徳寺大光院は、豊臣秀長の菩提寺として知られる、京都の重要なゆかりの地。
大徳寺塔頭のひとつで、千利休とも縁の深い枯山水庭園など、侘び寂びの美意識が色濃く残る寺院として知られています。
秀長は紀州攻めや四国攻略で活躍し、大和郡山城を居城としましたが、晩年は病に倒れ、1591年(天正19年)に生涯を閉じました。
葬儀は兄・秀吉が執り行い、大徳寺の高僧・古溪宗陳(こけいそうちん) によって営まれ、約20万人が参列したとも伝えられています。
もともと秀長の菩提寺として奈良・大和郡山に創建されましたが、1599年(慶長4年)、藤堂高虎によって京都・大徳寺境内に移されました。
現在、大光院の墓所には秀長と高虎の五輪塔が並んで建ち、静かにその生涯を今に伝えています。大光院は通常非公開ですが、2026年には「京の冬の旅」で特別公開される予定です。
ゆかりの地:大阪
豊臣秀長は、兄・秀吉の天下取りを陰で支えた名補佐役。その重要な足跡が残るのが大阪城周辺です。
徳川家康が豊臣秀吉に臣従するという、戦国史の大きな転換点に深く関わったのが豊臣秀長でした。
大坂城西の丸(大阪市)
徳川家康が宿泊したとされる「豊臣秀長邸」跡は現在の大阪城・西の丸、すなわち西の丸庭園一帯にあたります。
豊臣秀吉の天下統一における重要な転換点となったのが、徳川家康の上洛と臣従でした。この歴史的会談を陰で支えたのが、秀吉の弟・豊臣(羽柴)秀長です。
天正14年(1586)、家康は秀吉への臣従を決意し大坂へ到着、翌日の会見を前に秀長邸に宿泊しました。
前夜、秀吉が突然訪れたという逸話は史料的にも裏付けられています。翌日、家康は諸大名の前で秀吉への臣従を誓い、日本史の大きな流れが決定づけられました。
豊國神社(大阪市)
大阪城二の丸跡に鎮座する豊國神社(ほうこくじんじゃ)は、豊臣秀吉・秀頼・秀長の三公を祀る神社です。秀長邸跡にも近く、豊臣家ゆかりの地として知られています。
現在は「出世開運」のご利益で知られ、全国から多くの参拝者が訪れ、境内には複数の末社が並び、ここでしか授与されないお守りも人気。
大阪城の喧騒から少し離れ、豊臣家の歴史に思いを馳せる静かな時間を過ごせる場所です。
ゆかりの地:奈良
奈良は、豊臣秀長が大和国を治めた拠点の地。郡山城を中心に、城下町づくりや寺社の整備を進め、政治と信仰、文化が結びついた統治を行いました。
「豊臣兄弟!」の物語を立体的に感じられる、秀長ゆかりの史跡が今も点在しています。
郡山城跡(大和郡山市)
郡山城は、もともと織田信長に仕えた筒井順慶が築いた城で、豊臣秀吉の時代に弟・秀長が城主となり大規模に拡張しました。
秀長はここを百万石の居城とし、城と城下町を一体で整備。
築城の際に周辺寺院から集められた石の中には、今も石垣に埋め込まれたお地蔵様の姿が残り、静かに当時を伝えています。
現在は「続日本100名城」に認定され、春には約600本の桜が城跡を彩る奈良屈指の名所です。
洞泉寺(大和郡山市)
洞泉寺は、秀長が建立した寺院。本尊の「木造阿弥陀如来及両脇侍立像」は鎌倉時代の慶派仏師による作と伝わり、重要文化財に指定されています。
境内に祀られる「垢かき地蔵」は、かつて郡山城の沓脱石として使われていましたが、秀長が夢のお告げを受けて掘り起こし、民衆のために祀ったという逸話が残ります。
源九郎稲荷神社(大和郡山市)
歌舞伎・文楽『義経千本桜』で知られる「源九郎狐」を祀る稲荷神社。秀長と親交のあった高僧・宝誉の夢に白狐が現れ、郡山城の守護神となることを告げたと伝わります。
この話を受け、秀長が城内鎮守として祀ったのが始まりとされ、以後、郡山城とともに信仰を集めてきました。
本家菊屋(大和郡山市)
本家菊屋は、天正13年(1585)創業の老舗和菓子店。本家菊屋の名物「御城之口餅」は、初代店主が秀長の命で秀吉をもてなす茶会のために考案した菓子です。
粒餡を餅で包み、きな粉をまぶした素朴な味わいは秀吉に高く評価され、後に「鶯餅」とも呼ばれたと伝わります。現在も当時の製法を受け継ぐ、秀長ゆかりの名物です。
大納言塚(大和郡山市)
大納言塚は、1591年(天正19)に没した豊臣秀長が眠る墓所。
豊臣家滅亡後に一時荒廃しましたが、1777年(安永6)に春岳院の僧らの尽力で整備され、五輪塔が建立されました。
現在も毎年4月22日には秀長を偲ぶ「大納言祭」が行われています。
春岳院(大和郡山市)
春岳院(しゅんがくいん)は、秀長の菩提寺。もとは東光寺と称していましたが、秀長の戒名にちなみ現在の名に改められました。本堂は正徳元年(1711)の再建と伝わります。
境内には秀長の肖像画や、郡山統治期を伝える史料が残り、静かな佇まいの中で秀長の生涯に触れることができます。
宇陀松山城跡(宇陀市)
宇陀松山城跡は、豊臣政権下で郡山城や高取城を支える重要な拠点で、秀吉の家臣で秀長と行動をともにした伊藤祐時らが城主を務めました。
城下町も整備され、現在は石垣の一部が残るのみですが、宇陀地域を一望できる場所にあります。
南北朝時代から秋山氏の本城として築かれた宇陀松山城は、天正13年に豊臣家大名の居城となり、秀長の大和国入部を契機に大規模に改修され、城下町も整備されました。
大坂夏の陣(1615年)後、最後の城主・福島氏は改易され城は破却されました。
平成7年からの発掘調査で本丸や周囲が総石垣で構築されていたことが明らかになり、平成18年に国史跡に指定。現在の松山町(重伝建地区)には、城の繁栄を伝える町並みが残り、当時の雰囲気を感じながら散策できます。
ゆかりの地:名古屋中村区
名古屋市中村区は、豊臣秀長の生誕地として知られる場所。
兄・秀吉とともに尾張国中村郷で生まれ育った秀長のゆかりの地は、「豊臣兄弟!」放送を機に注目され、中村公園や豊臣ミュージアムなどで歴史と文化を学べます。
中村公園
中村公園内には、秀吉・秀長兄弟の生誕地を示す石碑や「豊國神社」があり、豊臣秀吉を主祭神として祀っています。
秀長は家族を支えつつ農業に励んでいましたが、兄・秀吉に誘われて武士となり、後の豊臣政権を支える右腕となりました。
現在も出世開運や文化の神として、多くの参拝者が訪れる場所です。
豊臣ミュージアム
2026年1月にオープンする豊臣ミュージアムは、「豊臣兄弟! 名古屋中村 大河ドラマ館」として、ドラマの世界観を体験できる施設です。
館内では秀長・秀吉兄弟の歴史展示や、戦国時代の食文化を紹介するコーナーもあり、名古屋ならではの歴史体験が可能です。
豊臣ミュージアム
名古屋市中村区中村町木下屋敷23-1(中村公園内)
開館期間:2026年1月24日~2027年1月11日
ゆかりの地:滋賀長浜市
滋賀県長浜市は、豊臣秀吉が初めて城主となった地で、弟・秀長も兄を支える側近として活躍した場所です。
城下町の整備や戦略的指揮を通じ、豊臣兄弟の絆と手腕が育まれました。
長浜市
豊臣秀吉が旧名「今浜」を「長浜」と改め、城下町の整備を進めた地で、弟・秀長も兄を支える忠実な側近として活躍しました。
在城期間は約9年と短かったものの、長浜のまちの礎を築き、現在も多くの住民から「秀吉さん」と親しまれています。
城下町や寺社、町並みは現代まで大切に受け継がれ、黒壁スクエアや慶雲館など、歴史を感じられるスポットが点在します。
1583年(天正11年)、本能寺の変ののち、秀吉は後継者を巡る柴田勝家との戦い、賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いに臨みます。
この際、秀吉は弟・秀長に細かい戦術指示を出した手紙を残しており、「惣構の堀から外に鉄砲を放て」「草刈の人すら陣中から出すな」といった具体的な命令が記され、長浜城歴史博物館にはこの手紙が残されています
秀長は田上山砦や堂木山砦など重要な拠点に陣を構え、指揮中枢として戦局を支えました。その活躍により羽柴方が勝利を収め、秀吉は天下人への大きな一歩を踏み出すこととなります。
この兄弟の連携と信頼関係は、戦国時代の家臣との絆を象徴するエピソードとして知られています。
ゆかりの地:和歌山
豊臣秀長ゆかりの地、和歌山では、秀吉の弟として築城や城下町の整備に尽力した足跡をたどることができます。
和歌山城や根来寺などを巡れば、戦国時代の城郭建築や寺院文化、秀長の行政手腕を感じながら、海や山に囲まれた絶景も楽しめます。
和歌山城(和歌山市)
和歌山市の中心にそびえる和歌山城は、天正13年(1585)に秀吉が紀州を平定した後、秀長に築城を命じたことに始まります。
築城地は虎伏山(とらふすやま)の峰で、普請奉行は藤堂高虎をはじめ約1万人が動員され、本格的な近世城郭として整備されました。
秀長自身は大和郡山に在城し、城代として桑山重晴が城を管理。石垣には「紀州の青石」と呼ばれる緑色片岩が用いられ、東の岡口門を大手とする縄張りで本丸を中心に築かれました。
ちなみに「和歌山」は、兄・秀吉が命名したと伝えられています。
現在の和歌山城は天守閣や石垣、広大な公園として整備され、秀長や豊臣家の築城の足跡を今に伝えています。
根来寺(岩出市)
紀州・岩出市にある根来寺は、1130年に高野山の僧・覚鑁によって創建された歴史ある寺院で、高さ40mの大塔は国宝に指定され、戦国時代の姿を今に伝えています。
豊臣秀長は郡山城整備の際、根来寺の大門を移築し、石材や石仏、五輪塔までも城の石垣に転用して城下町を整備。秀長の行政手腕と文化的センスを象徴する場所でもあります。
根来寺は戦国の鉄砲軍団「根来衆」の拠点としても知られます。紀州の強力な根来衆は、秀吉に対して反抗的な態度を取り、徳川家康と一時的に手を組むなどして勢力を拡大。
しかし、1585年(天正13年)の紀州征伐(通称「根来攻め」)で、秀吉軍十万余の大軍に攻め込まれ、寺は炎上。根来衆の軍事力は壊滅し、多くの僧兵が討ち取られました。
わずかに大塔は焼け残り、現在も国宝として当時の戦火の跡を伝えています。
根来寺は、秀長による城下町整備の材料提供の場であると同時に、戦国の猛将たちの激戦の舞台でもあり、豊臣政権下での紀州征伐を象徴する歴史スポットです。
ゆかりの地:福井 敦賀
秀吉が織田信長の信頼を勝ち取り、戦国の激動を駆け抜けた舞台のひとつが、福井県敦賀市の金ヶ崎です。
1570年の金ヶ崎の戦いでは、秀長がわずか300人で城に立てこもり、絶体絶命の撤退戦を成功させました。現在は城跡や金崎宮など、戦国のドラマを体感できるゆかりの地として知られています。
金ヶ崎城跡
金ヶ崎城は、1570年(元亀元年)の「金ヶ崎の戦い」の舞台として知られる城跡。
この戦いでは、織田信長率いる軍が朝倉義景の朝倉軍を攻める最中、同盟関係にあった浅井長政が裏切り、織田軍は絶体絶命の撤退を強いられました。
狭い袋小路のような地形の金ヶ崎で、最後尾の防御(殿軍)を務めたのは豊臣秀吉でした。
しかし実際に殿軍を務めたのは秀長で、秀長は秀吉の指示に従い、須賀小六・前野長康ら300人を指揮して金ヶ崎城に立てこもり、朝倉軍の追撃を食い止めつつ無事に秀吉本隊へ合流することに成功しています。
この防戦によって、秀吉は信長から厚い信頼を得るとともに、秀長自身の武功も際立ちました。
現在の城跡は石垣の一部や土塁が残り、そばの金崎宮では桜の季節に花換えまつりが開催されるなど、戦国の激闘の歴史を感じられるスポットとなっています。
まとめ:豊臣兄弟!ロケ地や舞台・ゆかりの地
「豊臣兄弟!」のロケ地やゆかりの地をめぐる旅は、大河ドラマの舞台を追体験できる歴史散策。
奈良・大和郡山の郡山城跡では城下町整備や秀長の行政手腕を、名古屋・中村では幼少期の足跡をたどることができます。
和歌山では和歌山城や根来寺を通じて紀州平定の歴史を、福井・敦賀の金ヶ崎城跡では絶体絶命の撤退戦で秀長が兄・秀吉と信長を支えた姿を体感。
さらに山形などのロケ地も含め、大河ドラマの世界を味わえるスポットが点在。今後も新たなロケ地が判明次第、随時追記していきたいと思います。



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